なぜ働くのか分からない人に「カネと暴力の系譜学」

「カネと暴力の系譜学」萱野稔人著を読んだ。

何故税金は高いのか?何故カネが無いのか?何故働かなくてはならない人間と働かなくてもよい人間がいるのか?何故土地を所有することが出来るのか?何故家賃を払わなくてはならないのか?そもそもカネとは何か?などの様々な疑問について考えるヒントをもらえる本だった。

本書の内容で気になった点は下記の通り。

国家は「暴力への権利」を独占することで成り立っている。ヤクザも国家も暴力によってみかじめ料(税金)を取り立てるという意味では同一だが、ヤクザには「暴力への権利」が無い。国家が死刑をしても犯罪にはならないが、ヤクザが人を殺したら犯罪になる。それは国家が「暴力への権利」を独占しているからだ。

国家が「暴力への権利」を独占できるのは、社会における他のあらゆる暴力を圧倒し、「違法」な行為を取り締まるだけの物理的な力をもっているからにほかならない。

そして「違法」の根拠となる法律は、国家が圧倒的な暴力でもって制定したものである。

すなわち、国家は「暴力への権利」をみずからに制定しながら暴力を行使する。なぜ国家にそれが出来るかといえば、それは国家がみずからの力の優位性を背景にして他の暴力を違法なものとして実際に取り締まるからだ。

これらのことから、暴力について考えるには、下記のことが大切だと著者は指摘する

つまり、暴力を思考するためには、暴力を「よい、わるい」とか「正しい、正しくない」といった道徳的な価値によって判断することをいったん停止しなくてはならない。

デモや事件が起きた時に、その行為が遵法か違法かで物事を判断する人間がいるが、そもそも法律というのは権力者がより効率よく支配するために制定したものに過ぎない。その法律を道徳的善悪の判断基準にするのは明らかな間違いで危険だ。

税金の徴収や土地の所有は、正しいから行われているのではない。圧倒的な暴力によって制定された法律によって定められているから法律的に「正しいとされている」に過ぎない。そこに善悪など存在しないのだ。

また本書で新鮮だったのは貨幣の誕生についての記述。

ふつう貨幣は、交換や商業の要求からうまれてきたと考えられている。しかしドゥルーズ=ガタリによればそうではなく、貨幣は税からうまれてきた。

貨幣の誕生というと、物々交換ではやり難いから、というのが定説だが、国家が税を徴収しやすくするためというのは新鮮。ただし、資本主義が国家から派生してきたといっても資本主義が国家に完全に包括されるものではないとしている。

また資本主義の拡大については、カネが無い生活していけないという状態が拡大していくと、資本主義はそれまでカネを払って手に入れるようなものでなかったもの(老人の世話、葬式など)まで商品にしていく。と指摘し、下記のように記述する。

だから資本主義が深化するほど、カネを介さない相互行為の幅はせばまっていく。都市部と農村部でカネを介さない相互行為の幅に違いがあるのも、資本主義が浸透している度合いが両者で異なるからだ。

都市部と農村部でカネを介さない行為に幅があるのは資本主義の浸透度合いが異なるからというのはおもしろい。実際、地方移住して、カネを介さない行為が多いのは感じている。東京に住んでいた時にはまず無かったが、地方に来てから物を貰うことがとても増えている。

資本主義と国家の関係性については下記のように結論付けている。

資本主義が確立されていくにつれ、国家は労働組織化を資本に任せ、富(税)を徴収し法的秩序を維持することにみずからを特化した。そしてその結果、資本のもとで労働の生産性は飛躍的に高まった。そして国家の税収も増えた。

これは資本主義が、暴力の実践という経済外的な強制によって人びとを働かせるのではなく、カネを稼ぐという希望によって人びとを働かせるからである。人間は恐怖より希望をいだくときのほうが従順になる。この性向を、資本主義はみずからの労働の組織化の原理としたのだ。

つまり、国家は資本主義の労働者がみずから喜んで働くという原理を利用して、より効率的に富を集めることに成功した、というのが筆者の結論である。

本文を引用したりしなかったり長々と書いてしまったが、なぜ税金が徴収されるのか?なぜ働かなくてはならないのか?カネとはなにか?ということのヒントになる記述がこの本にはたくさんある。

労働や法律に興味がある人は一度読んでみるといいかも。